以前、「死んだら人間ごみになる」という本を著した元検事総長がいたそうです。
私はこの本の題名を聞いた時に大変残念で寂しい思いがして止みませんでした。それと同時に、例え社会的な地位や名声があったとしても真(まこと)のみ教えに出会うご縁がなければ、この様な寂しい悲しい考え方をしてしまうものだなと思ったものでした。
人間としてこの娑婆世界に生を受けて、何十年いや例え少しの短い間でも、懸命に生き抜いて来られた方が亡くなるとゴミになるという考え方はあまりにも寂しい悲しい考え方ではないでしょうか。
このような考え方は何もこの元検事総長に限った事ではなく現代人の多くが、持ち合わせているような考え方ではないでしょうか。「死んだら全て終わり、そこにあるのは単なるリン酸カルシウムでできているお骨だけで後は何もないでしょ」という様な類いのはなしをよく耳にすることがあります。
浄土真宗の僧侶ではありませんが、元北面の武士で「山家集」等の歌集を著した西行法師という方が、晩年に次の様な歌を残しているそうです。
「何ものの おはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
この西行法師は、武士から出家し僧侶になった後、人生の四半世紀の多くを旅の中で過ごしたといういわゆる、漂泊の人生を送ったと聞きます。時には風雨に打たれ、真っ暗闇の中、たった一人で草を枕に野宿をする事も度々あったでしょう。そんな時、目には見えないが耳には聞こえないが、確かに私のすぐ傍で温かいお慈悲の眼差しで見守って下さっている尊い存在がいらっしゃる。
私がお願いしたわけでもないのに、何とも有難いことであろうという感謝の思いから思わず涙がこぼれ落ちた、そんな心境で詠まれた歌がこの歌だったのではないでしょうか?
無論、西行法師は何ものかが「ほとけさま」だと信知されていたのだと思います。しかし、私たち(衆生)に「目に見えない尊い世界」の存在を強調するがために、そして歌そのものをあじわい深くするために敢えて「何ものの…」と詠まれたのではないでしょうか。
さて、私事ですが大学時代の後輩で、今でもたまに行き来をするS氏という人物がいます。そのS氏から、3年前のお正月が過ぎた頃だったと思います、私のパソコンに彼からメールが送信されてきました。
大抵の事は電話で済ます彼なのに珍しいなと思いながらそのメールを開きました。するとそこには、彼のお母さんが亡くなったというお知らせの文がつづられていました。突然の事で私は驚き、S氏の心中を慮りました。しかし、そのメールを読み終えていくうちに、私は悲しい感情の中にも反対に生きる力をわけあたえられた、そんな気がしてまいりました。そのメールが以下のものです。
「1月3日の午後、母が浄土往生しました。雪だったのでお知らせを遠慮しました。
若い頃から肺に菌をもっていましたので、徐々に弱り、三年前からは入退院の闘病生活でした。何度も危篤状態をみんなで協力して乗り越えてきました。 ~中略~
今までにあまりにも多くの涙を流してきたので、臨終時は落ち着いて?受け止めることができました。でも泣いた。「やっと苦しみから解放されたね」って言いました。
お念仏の教えに逢えていたことが救いでした。今、お念仏すると母が宿っている感じです。気持ちが落ち着いたら、以前のように何も心配なく楽しめるようになるでしょう。」
如何でしょうか?「念仏の教えに遭えていた事が救いでした。今、お念仏すると母が宿っている感じです。」 日々お念仏の教えに生かされてきた、阿弥陀様のお慈悲を頂いて生きてきた彼故に、自然と口をついて出たこの一言だと思います。
「例え辛い別れであるけどもそれで終わりではないんだよ。お念仏を申させて頂く時にはいつもでもどこでもいっしょなんだ、お念仏一つで会える世界が確かにあるんだよ。」ということをあらためて私に教えて下さいました。尊いご縁を頂いた彼からのメールでした。
親鸞聖人がお説きになられた浄土真宗のみ教えは、亡くなるとそれっきりの世界ではありません。真実の教え(お念仏の教え)に生かされた人はこの娑婆世界での縁尽きても、阿弥陀様のご本願のはたらきにより、光り輝く真実の世界であるお浄土へと生まれさせて頂きます(これを往相回向という)。
そしてそれだけでなく、再び残された私達のもと (娑婆世界)へ「還相(げんそう)の菩薩様」として還ってきて下さり、いつでも何処でも私達を阿弥陀様と共に温かいお慈悲の眼差しで照らし、真実の教えへと導いていくという教えです(これを還相回向といい、前者とあわせて二種回向といいます)。亡くなった方は往ったら往ったきり、そんな寂しい世界ではないのです。
浄土真宗では「死にものの仏」になるのではなく、「生きて私達のためにはたらいて下さるほとけさま」になるという教えです。それが、親鸞聖人の真宗の命の捉え方、生死を越えた「無量寿(むりょうじゅ)」という命の捉え方です。
親鸞聖人が敬う七高僧のお一人の道綽禅師(どうしゃくぜんじ)という方が、『安楽集』という著書に
「前(さき)に生まれんものは後(のち)を導き、後に生まれんひとは、前(さき)を訪(とぶら)へ」
というお言葉を残されているように、先人が後に生まれてきた私たちを導いて下さったことに対して、私達は、先人が守り続けていった真実の教えを聞き、自分自身に問い訪ねていかねばならないのではないでしょうか?そうすればそこからきっと見えてくるはずです。本当の命の在り方というものが。多くのものに見守られ、支えられ、願われている命であるということが。自身がこうして生きていることがあたりまえだと思っていたことが、実はあたりまえではなかったのだということが。
そのことを本当に信知せしめられた時にこそ、浄土真宗の教えが私たちの人生において真の「生きる力」としてはたらいて下さるのではないでしょうか。それにより、如何なる苦難の人生になろうとも、決して何ものにも妨げられることのない力強い人生を歩んでいくことができるのではと、私は信じています。
合 掌
「念仏者は無碍(むげ)の一道なり。」 『歎異抄』第七条
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