≪今生でも迷っているのに、亡くなってからも迷いますか?≫
「生死(しょうじ)の苦(く)海(かい)ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀(みだ)弘(ぐ)誓(ぜい)の船のみぞ 乗せて必ず渡しける」
『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』
親鸞聖人
数年前、東京にて私のお気に入りの画家ポール・ゴーギャン展が開かれていました。
「生と死」「文明と野蛮」「聖と俗」等をモチーフとし、人間の根源を探求し続けた彼の代表作に《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》という絵画があります。若かりし頃(今でもそのつもりですが)、この原題を最初に聞いたとき、「人種・宗教等を問わず、人間の根源的な命題だな」と思ったのを今でも思い出します。
さて、時々耳にしますが、自分にとって都合の悪い事がたて続けに起こると「亡き人(先祖等)が迷い、私に災いやバチを与えているのだ」と言う方がいらっしゃいます。しかしよくよく考えますと、迷っているのはその方自身が迷っているのに他ならず、自分にとって都合の悪い事を亡くなった方の責任に転嫁しているのではないでしょうか。亡くなられた方がどのような尊い存在になられたのか、どのような場所に行かれたのかも知らずに、そして、無常なる人生を生きているその方自身が突然、この娑婆世界との縁尽きた時にどうなるのかもわからずに生きているという事、これほど悲しい事はないのではないでしょうか。
『歎異抄第9条』に「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく…」とあるように、私達の「いのち」ははるか過去世から存在はしていましたが、流転の境涯を送っていたに他なりません。今ここで、ご縁にあずかり仏法を聴聞せねば、過去世でも今生でも迷い続け、さらにこのままでは未来永劫流転し続けなければなりません。
この身終わった後どうなるのか、この「後生の一大事」を解決せずして、この世に生を受けた意味などないと私は思います。
作家の司馬遼太郎さんがかつて、「仏教の教えは地図のようなものである」とおっしゃっていたと言います。
仏教(正しい地図)とは、①今いる私の位置(状況、立場)と、②私がどこ(目的地、行く先)に向かって(生きて)行かねばならないということ、さらには③その目的地へ向かうための正しいルート(道のり)を教えてくれるものです。
それは逆に言い換えれば、仏教(正しい地図)を持たずに、人生を生きて行くということは、人生を彷徨いながら生きていくに等しいといえるのではないでしょうか。
真の正しい地図(仏教)とは、自分の状況、そして行き先、そこへ至る道を的確に教えて下さいます。
私達にとっての真の地図(仏教)とは、親鸞聖人が私達におさとし下さった「私を信じ、安心してまかせよ」という阿弥陀様のお呼び声である、「南無阿弥陀仏」のお念仏以外にはありません。親鸞聖人は、悩み苦しみ、自分というものがわからなくなっている私達のためにこそ、阿弥陀様のご本願があるのだということをおさとし下さいました。そして、そのご本願を信じ身をゆだね、お念仏申させて頂くことが、お浄土への確かな道であり、さらに浄土で仏(ぶつ)となった後も、そこにとどまるのではなく、再び迷いの娑婆世界に還って私達を教え導いて下さるものだとも説かれました。
親鸞聖人の『現世利益和讃』に「「南無阿弥陀仏を唱ふれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞(いにょう)して 喜びまもりたもうなり」(信心をいただき南無阿弥陀仏をとなえる身となれば、(阿弥陀様をはじめ)十方世界におられる数えきれない諸仏が百重にも千重にもとりまいて、お念仏する身となったことをよろこび、おまもり下さいます)とあるように、お念仏は、今生きている私たちに響いている教えであり、決して死者葬送や祖霊崇拝のための教えではありません。
仏教(仏事)意義とは、亡き方々をご縁として、どこまでも阿弥陀様の御心(智慧と慈悲)を聴聞し、仏徳讃嘆(ぶっとくさんだん)させて頂くことです。そうすることで何れは、自らの生きる意味と方向性が定まっていくこととなるでしょう。
合 掌
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