『肥料』 あいだみつを
あのときの あの苦しみも あのときの あの悲しみも
みんな肥料になったんだなあ 自分が自分になるための
お釈迦様が「人生は苦である」とおさとし下さったように、楽しみより、むしろ苦しみや悲しみが常であるのが人生であります。
しかしそれもよくよく考えると、まことの自分、まことのみ教えに出遇うための尊いご縁だからこそと受け取ることもできるのではないでしょうか。
親鸞聖人は比叡山での長年の求道のすえ、見えてきたのは何の教えによっても救われることが出来ない自己の罪悪性でありました。
そして京都東山の吉水の法然聖人のもとをたずねられ、自らが救われていく唯一の道である南無阿弥陀仏(阿弥陀様の本願力)というまことの教えに出遇うことが出来たのです。しかしその後も決して順風満帆の人生を歩まれたわけではなく、念仏停止(ちょうじ)という不条理な弾圧に遇い流罪となりました(承元の法難)。しかし親鸞聖人はそれさえも、念仏の教えを広めるよきご縁であったと慶ばれたのでありました。
人生においての苦しみや悲しみは、実は自身のこころを耕し、その先にあるあらたな自己のめざめやまことのみ教えとの出遇いのための大切な肥料とは言えないでしょうか。苦しみや悲しみを否定せずに、むしろ積極的に受容することにより出遇えるまことの世界が確かにあるのです。親鸞聖人が値遇(ちぐう)(かけがえのない出遇い)し信順された、阿弥陀様のみこころ、他力のお念仏の教えがまさにそうであると私はあじわわせて頂いております。
諸行無常、虚仮不実の世(我が身)だからこそ、私たちを呼びかけ照らして下さっている阿弥陀様のお慈悲に少しでもはやく出遇わねばなりません。そのためには常日頃から折に触れ、お聴聞(仏法を聞く)をさせて頂くことが肝要です。それにより自己が開かれ、転ぜられていくことを説くのが浄土真宗の教えであると言えましょう。
人生の順・逆いずれの縁であってもすべてをいただき、そして自分のすべてを投出し唯ひたすらに聞かせて頂く。
そこにまことの自己、阿弥陀様のみ心との出遇いがあるのです。
それによりお念仏を慶ぶ身とさせて頂いたなら、煩悩に苛まれ、たとえ思い通りの人生を送ることができなかったとしても、一切を尊いご縁・めぐみとして受け取り、慶びへと転じていくことができるのではないでしょうか。
合 掌
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